アパートの近くにある油面子育て地蔵尊(高地蔵)。
この地蔵尊は「高地蔵」と呼ばれて地元の人に親しまれています。
江戸時代の享保の頃、このあたりは飢饉や大火で多くの人が苦しい思いをしていました。
このとき亡くなった方たちの冥福を祈り、貧困者の救済を願って、
享保18(1733)年7月に祐天寺において供養が営まれ、六十六部供養碑とともにまつられた。
「高地蔵」と呼ばれるのは、このお地蔵様は高い台上にまつられていたため、という説と、
地勢上、小高い位置に立っていたという説があるそう。
元は、三田、白金方面から来る「下野毛道」が「祐天寺方面」と「碑文谷、九品仏方面」に
分岐する場所にあったのが、関東大震災後、目黒通りの拡張や周辺の宅地化により、
現在地へ移転されたそうです。
お地蔵は、一般的には「子供の守り神」として信じられていて、
サンスクリット語では、クシティ・ガルバ
クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」
町外れや辻に「町の結界の守護神」として、また悲しいことが起きた場所の
鎮魂として建てられることが多い。
町外れの結界と共に、この世とあの世との結界の守護神の意味もある。
また伝説では、
病気で盲目になったお婆さんの夢枕に毎夜旅の僧が現れて
「この地に埋もれているお地蔵さまを祀りなさい。」
といわれました。お地蔵さまを見つけたのは坂の上の高台でした。
そして篤く信仰を続けると病気が快復し目が見えるようになったということです。
お婆さん(老いた女性)の夢に現れた旅の僧という母子神の信仰として
広く、人々の間に高地蔵参りが行われてきたことを物語っているのだと思う。