鎌倉時代は、禅宗、真宗,時宗、鎌倉仏教と呼ばれる幾つもの宗派が生まれています。
それは、ブッダが活動されていた頃の古代インド社会と近いところがあったからだと
俺は思うのですね。
極楽寺も律宗の寺として中世の歴史に登場してきます。
中世の歴史の本には、禅律方と呼ばれる僧達が活動していて勧進を行い、
職能民を組織して道路や湾口の修復、架橋や寺社造営などの公共事業を行い、
貧民・病者の救済など社会事業にも力をつくした。とあります。※1
彼らの行動はとってもスマートで、シャープにみえるのです。
真言律宗
開祖の叡尊聖人は、真言密教の官僧だったが、荒廃した既存仏教に対する批判から、隠遁僧となり、
国の許可無くして、自分達の自誓受戒を行い、弟子の忍性と共に活動を行った。
また元寇にさいしては蒙古軍撃退の祈祷を行なった。
ここでいう自誓受戒と言われるものが、彼らが律宗と呼ばれた所以のようです。
自誓受戒というのは自分達で誓った戒律という意味だと思います。
で、そもそも戒律とは何かということになってくるのですが、それはブッタの時代まで遡る必要があるようでした。
釈迦国の王子であったブッダが出家を決意した理由として、四門出游というi逸話が伝えられています。
でも歴史を調べると、ブッダの晩年、釈迦国は隣国コーサラ国の大軍に攻められて滅亡しているのですね。
釈迦国の王子であったブッダの出家が釈迦国の滅亡の要因とも考えられますが、
ブッダは、出家される時点で自らの国の将来も予見されていたのかもしれません。
そしてガンジス川のほとりマガダ国という大国の中で、帝国に依存しない自分達の共同体をおつくりになられた。
原始仏教団の厳しい戒律は、帝国の中で自分達の共同体を守り運営していくために必要だったと考えられます。
叡尊上人、忍性上人らが、官僧を辞め隠遁僧として活動を始めた時代は、モンゴル帝国が覇権国家として拡大していた頃であり
ブッダが出家された当時の古代国家が覇権を争っていた状況と社会背景が近かったのではないでしょうか。
元寇という未曾有の国難において彼らが実践的に活動できた理由は、
真言密教に、他の宗派から小乗仏教として避けられていた原始仏教教団の実践的な戒律を取り込み、
国家体制に依存しない自立的な組織をつくり活動を行ったということになるのだと思います。
でも真言密教自体が、お大師さんの仏教というだけで、詳しく知っているわけではないです。
(有にも無にも捕われない般若の空の知恵に体を入れてくるのが密教、、これで分かるか? 俺は分からん。)
なので、ここは改めて。
仏教を、覇権主義に対抗する思想として考えてみると、現代も台頭する大陸の国家にどう対応するか考えた時、
景気は良くしてほしい、防衛だって大切だよな。だけど、あんまりナショナリズムに走るのもどうよってとこで、
お釈迦様や鎌倉時代の祖師達のあり方を、振り返ってみてもいいんじゃないでしょうか。
個人的には、煩悩具足の凡夫として、彼らの爪の垢くらいは煎じておいたほうがよかね。という感じ。
※1 蒙古襲来 網野善彦 小学館
極楽寺
極楽寺は、戒律を重視する真言律宗のお寺で鎌倉の歴史に、
かなり影響を与えていて、鎌倉大仏の造営には律宗教団に伴われた
河内鋳物師達が参加しているとのことです。
少し生真面目な男性と元気のいい女性のコンビのどこが鎌倉を描くモチーフやねんというのは、
仏教の場合は真理は女性形で考えられていて、そこに踏み込んでいくための行動の規則が
戒律ではないかと、どこかの怪しげな本で読んだのですね。
男女が、ボケたり突っ込んだりしながら手を取り合って歩んでゆく。というのが
いいのでしょう。